昭和が最も熱く震えた日・・・「226」



二・二六事件にいたるまでの道すじ

笠原 和夫


 今から七十年ほど前、大正から昭和初期にかけての日本は、現代では想像もつかぬほど貧しい国だった。工業生産はまだ世界のレベルに達せず、外国に輸出できるものといったら生糸ぐらいのもので、現在の開発途上国のような農業主体の経済で成り立っていた。その上、華族や大地主といった特権階級が大衆に君臨し、明治維新以来政府と密着して肥大化した財閥が経済活動を自在に操って、貧困の差は拡がる一方であった。
 その矛盾は第一次世界大戦が終わった後の世界的な不況の波のなかでさらに拡大し、巨額な軍事費の負担とともに庶民を貧窮のどん底に陥れた。そうした体制に反発して無政府主義運動やソビエト・ロシアの革命に倣った共産主義が大衆社会の新たな風潮となったがどちらも政府の強権によって弾圧され、昭和初年には反体制的な大衆運動といったものはほとんど影をひそめてしまった。
 その代わりといった形で抬頭したのが、国家社会主義だった。前の共産主義がコミンテルン(第三国際労働者協会)の指令に盲従して天皇制打倒をスローガンとしたことに反発する人々が、日本精神を見直した上で社会主義的な平等政策を実現しようとしたもので、大衆救済を目標とするものの、その運動主体は国粋主義者や若手軍人が中軸となっていた。従ってその思想の行き着く先は、日本国民はすべて現人神の天皇の赤子であるから、天皇の御親政によってこそ真の平等社会が築かれる、という天皇制ファシズムへと発展してゆくのである。
 そうした思潮に拍車をかけたのは、昭和四年の世界大恐慌による経済破綻、冷害による農村恐慌、そして大正十一年のワシントン会議から相次いで開かれた列強間の軍縮会議の波紋であった。都会には失業者が溢れ、農村の貧しい子女たちは売春婦に売りとばされ、各地の小学校では欠食児童が大半を占めた。また、アメリカやイギリスなどの先進強大国が力によって後進国日本の軍備を削減しようとする軍縮会議の方向は、国家社会主義運動の中核である若手軍人たちに、一身上の失業の不安とともに日本国家の前途の危機感を抱かせた。
 昭和七年の「血盟団事件」、「五・一五事件」などのテロはこうした背景の中で起こった。そうしてこれらの事件の直後、斎藤実海海軍大将を首班とする挙国一致内閣が誕生し、政党政治が崩壊して軍人が政治の主役となり、そこから権力欲にとりつかれた軍閥間の葛藤が始まった。
 軍人が政治権力を握ったことから、日本は必然的に軍事力によって難局を打開しようとする政策に転じ、不況突破としての中国大陸侵略―現地中国人の抵抗―満州事変といういわゆる十五年戦争の緒を開くこととなる。
 一方、政官界はすでに幾度となく疑獄事件を起こしている上に政争を繰り返して腐敗の極に達していたし、戦争景気で浮かれる大都会ではデカダンの風潮が蔓延して爛れた享楽に溺れていた。そうした現実に接して、真摯に社会の前途を憂う青年将校たちのなかに、天皇親政を希求する念が一層強まった。
 例えば今日の政治状況を見れば、彼等の意図も分からぬではないだろう。政権与党の首脳はことごとく汚職にまみれ、野党は足の引っ張り合いで結束を欠き、大衆は政治に無関心の傾向を強めている。世界一といわれる繁栄がつづいているからこそ不平不満は爆発していないが、これが貧乏国だったらどうだろう。いっそ天皇陛下に内閣総理大臣になっていただいた方が、よほど清潔な政治が期待できる。と思っても無理からぬところだろう。まして天皇が国家を統治する主権者であった当時においては、そうした意図は決して砂上の楼閣の話ではなかった。
 当の昭和天皇は大英帝国流の立憲君主制を堅持するリベラリズムに強く影響を受けておられたので、天皇親政は夢にも考えたことはなかったが、直宮の秩父宮は憲法を一時停止して天皇親政を敷く以外に現状を改革する方途はない、というお考えだったといわれる。それというのも、宮は現役の将校として第三連隊の中隊長などを歴任し、貧しい家庭を抱える兵士たちの窮状をつぶさに見聞していたからである。
 ただ秩父宮は武力革命という過激な思想は持っておられなかった。軍人、とくに若手将校と下士官の思想改造をして、民主的な軍隊が社会の改造に貢献する。という理想を持っておられたようである。
 青年将校たちの天皇親政に傾く熱情が先鋭化するにつれて、一部の軍首脳がそれを扇動する動きを見せ始めた。陸軍部内では維新の元勲でもある山県有朋元帥が代表する長州閥と、それを打倒しようとする中堅将官グループとの対立が長い間尾を引き、さらに主導権をめぐっての争いが分派を生んで複雑な葛藤がおこっていた。青年将校たちに肩入れしていたのもその一派閥である。そうした中で参謀本部を中心とした陸軍大学出の軍エリートたちは、将来の第二次大戦は不可避とみて、国家総力戦体制を築くことが急務であると断じ、そのためには財界の支援は不可欠であるとして、財閥解体・特権階級打倒・農地解放のスローガンを声高に叫び始めた革新青年将校団の統制に乗り出した。このグループがいわゆる統制派(自称は清軍派)と呼ばれるものである。
 一方、皇道派と呼ばれる革新青年将校団はいずれも各連隊の隊付き将校で、部下の下士官兵とは気脈を通ずる間柄で、陸大出の統制派の将校たちを「天保銭」(陸大卒業のバッジ)と呼んで仇敵のように憎んだ。
 そうした矢先、皇道派を支援していた真崎甚三郎大将が教育総監の職を更迭された。それに憤慨した皇道派の相沢三郎中佐が、真崎追放の主唱者とみられていた陸軍省軍務局長永田鉄山少佐を斬殺した。
 この相沢中佐の裁判がはじまると、革新青年将校団は軍内部の抗争の醜状を一挙に国民の目に晒して、統制派の権力失墜・昭和維新(天皇親政による国家改造)の達成につなげようと法廷闘争を開始した。
 昭和十一年の年明け早々、統制派は目に余る革新青年将校団の動きを封殺しようと、一つは相沢裁判を非公開として支援将校グループの締め出しを計り、もう一つは皇道派将校が多く属する在京の第一師団を満州の戦線に派遣する内命を示した。
 法廷闘争もできず、その上満州に二年も三年も飛ばされていたら、軍部も日本国家も統制派の思うままに支配され、旧体制は金城鉄壁のものとなって、国家改造などは夢となって消えてしまうだろう―
 満州出征の前に行動を起こさなければ・・・はじめてクーデターという言葉が青年将校たちの脳裏に浮かんだのである。


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